アイザックの雑記
Since2009年5月2日~、音楽、映画、将棋界、時事等色々書き綴っていた、のは今では過去のこと。
読レビュあんまり濃くかけないので、最近は参加したライブレポや雑記。
<> 天が堕ち行く明日へと向かう、喧騒を遠ざけ心に響く音楽こそを愛す。
<>・・・去りし日の記憶…あくなき願いと想い、追い求め…紡ぎ綴る、過ぎ行く時…今その目に据えるもの
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星を継ぐもの (1977) 解説 鏡明
ジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」は、サイエンスフィクションである
この作品がことのほか重要な意味を持っていると主張したい
1970年代に入って、SFは拡大の一途をたどってきた 量的にも質的にも、SFは成長し続けてきたといえる
その主要なマーケットであり、供給源であるアメリカを例にすれば
たとえば70年代半ばには、新刊・再刊を含めて、1日辺り2冊ずつ読破せねば年間に出版されるSFを読みきれないという状況になったし
70年代の終わりには、なんと1日3冊のペースを必要とするようになってきたわけである
こうした傾向はアメリカだけにとどまらず例えば日本でもイギリスでもドイツでも
SFというものが存在する国ではほとんどにあって同様の傾向を示してきた
そしてまた、SFは活字文化だけではなく 映画・美術・音楽といった他のメディアの中にその地位を確立した
追記へ
ジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」は、サイエンスフィクションである
この作品がことのほか重要な意味を持っていると主張したい
1970年代に入って、SFは拡大の一途をたどってきた 量的にも質的にも、SFは成長し続けてきたといえる
その主要なマーケットであり、供給源であるアメリカを例にすれば
たとえば70年代半ばには、新刊・再刊を含めて、1日辺り2冊ずつ読破せねば年間に出版されるSFを読みきれないという状況になったし
70年代の終わりには、なんと1日3冊のペースを必要とするようになってきたわけである
こうした傾向はアメリカだけにとどまらず例えば日本でもイギリスでもドイツでも
SFというものが存在する国ではほとんどにあって同様の傾向を示してきた
そしてまた、SFは活字文化だけではなく 映画・美術・音楽といった他のメディアの中にその地位を確立した
追記へ
70年代に入って「SFの黄金時代は、今だ」という言葉がささやかれるようになったのも、当然というべきだろう
かつて「SFの黄金時代」といえば、アメリカの1950年代をさしていたのだが
70年代は状況的にも、おそらくは小説の質としても、50年代を超えたといっていい
けれども、SFの拡大が日常化し始めた70年代の終わり近くなって、再び50年代のSFに対する評価が高まってきた
量の問題ではなく、質の問題から50年代について再び語られ始めたといえる
R・A・ハインライン、アイザック・アシモフ、A・C・クラークたちを頂点にする、50年代のSF評価が揺らぎ始めるきっかけは
60年代の半ばにイギリスで起こったニューウェーブ・ムーブメントであった
マイケル・ムアコックの編集する「ニューワールズ」を中心として英米のSF界を巻き込んだこれについては既に多くが語られている
ここでそれを繰り返すことは避けるが、一言でいえば小説としてのSFの見直しであったと思う
そしてまた「唯一の未知の惑星は地球だ」という有名なJ・G・バラードの言葉に代表されるように
それまでのSFの歴史に集約されたものとしての50年代のSF、ことにアメリカのSFが作り上げたSFのイメージ
宇宙や遠い未来、あるいは過去といったイメージそのものを拒否していったわけだ
もちろん、それはSFを普通の小説にしようというわけではなく たとえば宇宙や未来といった素材そのものが
かえって想像力を解放するどころか、通俗化しステロタイプ化した作品を生み出すにすぎないということから、始まっているのだが
いわゆるSFファンの間でも、その方向については賛否両論が入り乱れた
つまり、それがSFをSFでなくしてしまうのではないかが問題にされたわけだ
結局の所、ニューウェーブ・ムーブメントそのものは、60年代の内に一応終わりを迎えてしまった
けれどもその衝撃はSFその物の内にとどまり、絶対的な評価を得ていた50年代のSFもまた、その絶対性を失うに至ったのである
実際重要なのは、その個々の作品ではなく その概念だけであったように思う
最も制約のない文学であると思われていたSFが、実は何より制約の強いものであったかもしれないと思わせただけで役割は果たされた
70年代のSFはいってみれば、そうした大破壊の廃墟の跡から始まった 70年代の1つの傾向はその多様性であり
小説としての質的向上であったろう、多様性というのは内容そのものだけではなく書き手・読み手・メディア等を含めて意味での多様化だ
もはやいかなるものも、絶対的な力を持たなくなったといえる、SFがサイエンス・フィクションでなくなったのも当然である
SFが必ずしもサイエンス・フィクションでないということは、すでに50年代から事実としてあったのかもしれない
たとえば、フレドリック・ブラウンやロバート・シェクリーというような作家たちにあっては
どこまでがSFであるのか、その境界があいまいであったはずだからだ
けれども、科学あるいは技術というものが、まだ50年代にはSFの中核に存在しているという幻想が確固としてあったといえる
それが70年代からは失われた その責任をニューウェーブだけに帰するのは、問題があるかもしれない
あるいは60年代という時代そのものが、反科学的であり、反技術的であることを善しとしたという背景そのもの
SFに対する投影であったかもしれないからだ けれどもそれと同時にSFに小説としての目覚めを要求した影響も見過ごすべきでない
70年代に入ってからのSFにおけるサイエンスの喪失は、具体的にはファンタジーの氾濫という形で現れてきた
60年代のJ・R・R・トールキンのリバイバル、R・E・ハワードの「コナン」シリーズによるヒロイック・ファンタジーリバイバルが
まさに潮流となってSFの中に流れこんできたのだ ファンタジーがSFの中で確固とした地盤を確保するようになった
もちろんその多くは純粋なファンタジーではなく、ヒロイック・ファンタジーであったけれども
それまでほんの僅かな読者の間でのみ読まれていたFantasyが立派にビジネスとして成立するようになったのは驚くべきといっていい
そしてその読者と作者のかなりの部分が、SFに関わる者たちであったわけだ SFにおけるサイエンスの喪失を端的に示す現象だった
けれども実に興味深いことだが、70年代の後半になって、いかにもサイエンス・フィクションらしいSFが次第に目立つようになってきた
現象面からいうならば、たとえばヒロイック・Fantasyの成功がスペース・オペラの復活、新作に結びつき
そこからサイエンス・フィクションの再生が始まったように見える
ヒロイック・Fantasyが実は、30・40年代のスペース・オペラの変形だという意見は、そのブームの当初からあったのだが
たしかに、それはうなずける部分がある 誰しもが文学を望むわけではない そして50年代のSFの再評価が始まるわけである
その意味で「スターウォーズ」の大ヒットは、象徴的なことであり、サイエンス・フィクションの復権であった
50年代のSFの再評価は、まだ始まったばかりといえる けれども特徴的なことはノスタルジア方面だけではないということ
50年代のSFが素晴らしいという評価はいってみれば常に存在した、ニューウェーブ華やかしい頃でさえ、50年代SFの信奉者は多かったし
だからこそ論争が存在したのだが それがともすれば守勢に回ることになったのは、ほとんどがノスタルジアに味付けされた意見だからだ
SFにおける科学や技術の意味から50年代のSFについて語られ始めたのは、やはり最近ではなかったかと思う
SFにおける科学などというタイトルで、例えばポール・アンダーソン辺りが論文を書くということは、それまで見かけない事であった
70年代を「FantasyとハードSFの時代だ」と言ったことがある それは極論ではあるけどもサイエンス・フィクションの復活は
それをいっても構わないだけの重要性を持っているように思うのである
もちろん、ハードSFがそのままサイエンス・フィクションであるかどうか、そこに問題はあるにせよ
それはほとんど重なりあっているように言えると、解説者は信じる
70年代のSFライターとして最も名前を知られているのはラリー・ニーヴン辺りだろうがここにきてまさにSFライターたちが輩出してきている
本書の作者であるジェイムズ・P・ホーガンもそうしたニューサイエンス・フィクション・ライターの一人だ
そうしたライターたちに共通するのは、科学や技術に対する恐怖感 あるいは拒否の姿勢が欠けていることであろう
というよりも、科学や技術について語り、それを取り上げることに楽しさを感じている形跡すらある
いってみれば、50年代以前のSF作家たちのように彼らは、現在の科学や技術に追いつき理解しつつあるといえる、これは重要な事だ
そして、本書の作者はその最右翼にいる それは例えばラリー・ニーヴンと比べてみればわかることだ
ニーヴンは、結局は小説を書くのかもしれない、当時のアイディアや科学・技術の存在がストーリー展開の中で急速に輝きを失うのを
ニーヴンの長編ではしばしば経験する ストーリーが、ついに全体を支配していくわけだ
けれどもホーガンの作品にあっては、それが逆になる 時には50年代以前のSFを思わせる程だ
この「星を継ぐもの」は、ホーガン最初の長編だが、彼の特徴がよく出ている
ストーリーを中途半端に語るよりも、はるかに素晴らしい物を演出できているといえる センスオブワンダーってやつだ
50年代のSF、いやそれ以前のSF作品が与えてくれたセンスオブワンダーがホーガンにはある
黄金の50年代の再評価と共に、その70年代版が出現したといえる どちらが先だったかはこの際、重要ではない
SFが想い出の中で語られるのではなく、今ここで書かれ読まれるということが重要なのである
SFがサイエンスを取り戻しつつある、この「星を継ぐもの」に解説者が入れ込んでいるのは、まさにその時代故なのだ
作品として、小説として、完成度を高めてきた70年代のSFになって、今1つSFファンに物足りなさを感じさせてきた空白
50年代SFの持っていたもの、その空白を埋めるべき作品群の前兆が感じられる
小説として、SFとして、おそらくは数多くの欠点を持っているかもしれないこの作品には、その全てを帳消しにする魅力がある
読んでいる内に胸がワクワクしてくるのである、まさにサイエンス・フィクションといえる
ジェイムズ・P・ホーガン作
1.星を継ぐもの Inherit the Stars 1997
2.創世記機械 The Genesis Machine 1978
3.ガニメデの優しい巨人 The Gentle Giants of Ganymede 1978
4.未来の2つの顔 The two face of tomorrow 1979
5.未来からのホットライン Thrice upon a Time 1980
6.巨人たちの星 1981
3.6は1の続編である、後の続編として「内なる宇宙」Entoverse 1981がある
4はコンピュータvs人類というテーマを扱い 2は科学と科学者の復権を扱っている
5はタイムトラベル物という、いずれもSFである 創元SF文庫より
かつて「SFの黄金時代」といえば、アメリカの1950年代をさしていたのだが
70年代は状況的にも、おそらくは小説の質としても、50年代を超えたといっていい
けれども、SFの拡大が日常化し始めた70年代の終わり近くなって、再び50年代のSFに対する評価が高まってきた
量の問題ではなく、質の問題から50年代について再び語られ始めたといえる
R・A・ハインライン、アイザック・アシモフ、A・C・クラークたちを頂点にする、50年代のSF評価が揺らぎ始めるきっかけは
60年代の半ばにイギリスで起こったニューウェーブ・ムーブメントであった
マイケル・ムアコックの編集する「ニューワールズ」を中心として英米のSF界を巻き込んだこれについては既に多くが語られている
ここでそれを繰り返すことは避けるが、一言でいえば小説としてのSFの見直しであったと思う
そしてまた「唯一の未知の惑星は地球だ」という有名なJ・G・バラードの言葉に代表されるように
それまでのSFの歴史に集約されたものとしての50年代のSF、ことにアメリカのSFが作り上げたSFのイメージ
宇宙や遠い未来、あるいは過去といったイメージそのものを拒否していったわけだ
もちろん、それはSFを普通の小説にしようというわけではなく たとえば宇宙や未来といった素材そのものが
かえって想像力を解放するどころか、通俗化しステロタイプ化した作品を生み出すにすぎないということから、始まっているのだが
いわゆるSFファンの間でも、その方向については賛否両論が入り乱れた
つまり、それがSFをSFでなくしてしまうのではないかが問題にされたわけだ
結局の所、ニューウェーブ・ムーブメントそのものは、60年代の内に一応終わりを迎えてしまった
けれどもその衝撃はSFその物の内にとどまり、絶対的な評価を得ていた50年代のSFもまた、その絶対性を失うに至ったのである
実際重要なのは、その個々の作品ではなく その概念だけであったように思う
最も制約のない文学であると思われていたSFが、実は何より制約の強いものであったかもしれないと思わせただけで役割は果たされた
70年代のSFはいってみれば、そうした大破壊の廃墟の跡から始まった 70年代の1つの傾向はその多様性であり
小説としての質的向上であったろう、多様性というのは内容そのものだけではなく書き手・読み手・メディア等を含めて意味での多様化だ
もはやいかなるものも、絶対的な力を持たなくなったといえる、SFがサイエンス・フィクションでなくなったのも当然である
SFが必ずしもサイエンス・フィクションでないということは、すでに50年代から事実としてあったのかもしれない
たとえば、フレドリック・ブラウンやロバート・シェクリーというような作家たちにあっては
どこまでがSFであるのか、その境界があいまいであったはずだからだ
けれども、科学あるいは技術というものが、まだ50年代にはSFの中核に存在しているという幻想が確固としてあったといえる
それが70年代からは失われた その責任をニューウェーブだけに帰するのは、問題があるかもしれない
あるいは60年代という時代そのものが、反科学的であり、反技術的であることを善しとしたという背景そのもの
SFに対する投影であったかもしれないからだ けれどもそれと同時にSFに小説としての目覚めを要求した影響も見過ごすべきでない
70年代に入ってからのSFにおけるサイエンスの喪失は、具体的にはファンタジーの氾濫という形で現れてきた
60年代のJ・R・R・トールキンのリバイバル、R・E・ハワードの「コナン」シリーズによるヒロイック・ファンタジーリバイバルが
まさに潮流となってSFの中に流れこんできたのだ ファンタジーがSFの中で確固とした地盤を確保するようになった
もちろんその多くは純粋なファンタジーではなく、ヒロイック・ファンタジーであったけれども
それまでほんの僅かな読者の間でのみ読まれていたFantasyが立派にビジネスとして成立するようになったのは驚くべきといっていい
そしてその読者と作者のかなりの部分が、SFに関わる者たちであったわけだ SFにおけるサイエンスの喪失を端的に示す現象だった
けれども実に興味深いことだが、70年代の後半になって、いかにもサイエンス・フィクションらしいSFが次第に目立つようになってきた
現象面からいうならば、たとえばヒロイック・Fantasyの成功がスペース・オペラの復活、新作に結びつき
そこからサイエンス・フィクションの再生が始まったように見える
ヒロイック・Fantasyが実は、30・40年代のスペース・オペラの変形だという意見は、そのブームの当初からあったのだが
たしかに、それはうなずける部分がある 誰しもが文学を望むわけではない そして50年代のSFの再評価が始まるわけである
その意味で「スターウォーズ」の大ヒットは、象徴的なことであり、サイエンス・フィクションの復権であった
50年代のSFの再評価は、まだ始まったばかりといえる けれども特徴的なことはノスタルジア方面だけではないということ
50年代のSFが素晴らしいという評価はいってみれば常に存在した、ニューウェーブ華やかしい頃でさえ、50年代SFの信奉者は多かったし
だからこそ論争が存在したのだが それがともすれば守勢に回ることになったのは、ほとんどがノスタルジアに味付けされた意見だからだ
SFにおける科学や技術の意味から50年代のSFについて語られ始めたのは、やはり最近ではなかったかと思う
SFにおける科学などというタイトルで、例えばポール・アンダーソン辺りが論文を書くということは、それまで見かけない事であった
70年代を「FantasyとハードSFの時代だ」と言ったことがある それは極論ではあるけどもサイエンス・フィクションの復活は
それをいっても構わないだけの重要性を持っているように思うのである
もちろん、ハードSFがそのままサイエンス・フィクションであるかどうか、そこに問題はあるにせよ
それはほとんど重なりあっているように言えると、解説者は信じる
70年代のSFライターとして最も名前を知られているのはラリー・ニーヴン辺りだろうがここにきてまさにSFライターたちが輩出してきている
本書の作者であるジェイムズ・P・ホーガンもそうしたニューサイエンス・フィクション・ライターの一人だ
そうしたライターたちに共通するのは、科学や技術に対する恐怖感 あるいは拒否の姿勢が欠けていることであろう
というよりも、科学や技術について語り、それを取り上げることに楽しさを感じている形跡すらある
いってみれば、50年代以前のSF作家たちのように彼らは、現在の科学や技術に追いつき理解しつつあるといえる、これは重要な事だ
そして、本書の作者はその最右翼にいる それは例えばラリー・ニーヴンと比べてみればわかることだ
ニーヴンは、結局は小説を書くのかもしれない、当時のアイディアや科学・技術の存在がストーリー展開の中で急速に輝きを失うのを
ニーヴンの長編ではしばしば経験する ストーリーが、ついに全体を支配していくわけだ
けれどもホーガンの作品にあっては、それが逆になる 時には50年代以前のSFを思わせる程だ
この「星を継ぐもの」は、ホーガン最初の長編だが、彼の特徴がよく出ている
ストーリーを中途半端に語るよりも、はるかに素晴らしい物を演出できているといえる センスオブワンダーってやつだ
50年代のSF、いやそれ以前のSF作品が与えてくれたセンスオブワンダーがホーガンにはある
黄金の50年代の再評価と共に、その70年代版が出現したといえる どちらが先だったかはこの際、重要ではない
SFが想い出の中で語られるのではなく、今ここで書かれ読まれるということが重要なのである
SFがサイエンスを取り戻しつつある、この「星を継ぐもの」に解説者が入れ込んでいるのは、まさにその時代故なのだ
作品として、小説として、完成度を高めてきた70年代のSFになって、今1つSFファンに物足りなさを感じさせてきた空白
50年代SFの持っていたもの、その空白を埋めるべき作品群の前兆が感じられる
小説として、SFとして、おそらくは数多くの欠点を持っているかもしれないこの作品には、その全てを帳消しにする魅力がある
読んでいる内に胸がワクワクしてくるのである、まさにサイエンス・フィクションといえる
ジェイムズ・P・ホーガン作
1.星を継ぐもの Inherit the Stars 1997
2.創世記機械 The Genesis Machine 1978
3.ガニメデの優しい巨人 The Gentle Giants of Ganymede 1978
4.未来の2つの顔 The two face of tomorrow 1979
5.未来からのホットライン Thrice upon a Time 1980
6.巨人たちの星 1981
3.6は1の続編である、後の続編として「内なる宇宙」Entoverse 1981がある
4はコンピュータvs人類というテーマを扱い 2は科学と科学者の復権を扱っている
5はタイムトラベル物という、いずれもSFである 創元SF文庫より
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プロフィール
HN:
アイザック
年齢:
34
HP:
性別:
男性
誕生日:
1991/02/17
職業:
社員
趣味:
音楽鑑賞・映画鑑賞・将棋・テニス・読書
自己紹介:
仕事や日常、本(主に小説等)・音楽・映画、その他について書き綴ります。
尊敬する人
羽生善治名人・イチロー・同年代で活躍している人たち 佐藤直紀さん・渡辺謙さん・東野圭吾さん・まらしぃさん
神奈川県・横浜市民
座右の銘・好きな言葉
不撓不屈・初志貫徹・明鏡止水
志あるところに道は開ける
Where there is a will,there is a way
邦楽・洋楽どのジャンルも好きでありながら、やはり一番はロック調、バラードも好む
映画ではアクション・コメディ・SFが主、洋画が多いけど邦画でも興味持つものはあります
戦い・アクションを好み、シリアス系・推理物(探偵物)等も
Game等はRPG・アクション・STG…BB歴は浅いけど追々。
単行本・コミックとか…opたしか72か5止まり
鋼の錬金術師27巻・完
天上天下 22巻・完
小説に関してはミステリほか、恋愛・ホラー以外ならオールジャンル
(敬称略)東野圭吾・貴志祐介・村上春樹・宮部みゆき・・・方ほか
尊敬する人
羽生善治名人・イチロー・同年代で活躍している人たち 佐藤直紀さん・渡辺謙さん・東野圭吾さん・まらしぃさん
神奈川県・横浜市民
座右の銘・好きな言葉
不撓不屈・初志貫徹・明鏡止水
志あるところに道は開ける
Where there is a will,there is a way
邦楽・洋楽どのジャンルも好きでありながら、やはり一番はロック調、バラードも好む
映画ではアクション・コメディ・SFが主、洋画が多いけど邦画でも興味持つものはあります
戦い・アクションを好み、シリアス系・推理物(探偵物)等も
Game等はRPG・アクション・STG…BB歴は浅いけど追々。
単行本・コミックとか…opたしか72か5止まり
鋼の錬金術師27巻・完
天上天下 22巻・完
小説に関してはミステリほか、恋愛・ホラー以外ならオールジャンル
(敬称略)東野圭吾・貴志祐介・村上春樹・宮部みゆき・・・方ほか
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